亀屋清永の歴史
京菓子のルーツ
京菓子の歴史は、そのまま日本の菓子の歴史でもあります。菓子は、その文字が語るように、そもそもは木の実や草の実でした。ちなみに、わが国の菓祖神は、第11代垂仁天皇に仕えた田道間守(たじまもり)と伝えられています。病気の天皇のため、不老不死の霊薬として常世の国(中国の南部からインド)から非時香菓(ときじくのかくのこのみ)を9年の歳月を要して持ち帰ったという伝説が残っています。
その後、奈良時代には仏教の伝来とともに、米や麦、大豆当の穀物を材料にした唐の菓子「唐果物(からくだもの)」が、遣唐使によって伝えられました。亀屋清永の代表的銘菓「清浄歓喜団」もそのひとつです。そして、これが京菓子のルーツでもあります。
団子や餅を塩味で整え、油で揚げた唐菓子は、神仏へのお供え物として、あるいは貴族たちの饗宴に食された、極めて儀式性の高い菓子です。現在も、神社や寺院の神饌(しんせん)や供饌(きょうせん)として、その面影をとどめています。


江戸時代に花開いた京菓子
奈良時代にはまた、砂糖も伝来しました。唐招提寺を建立した唐の鑑真が、薬として石密(砂糖の開祖だといわれる)を天皇に献上したのが始まりと言われています。この頃、砂糖を口にできるのは、貴族や将軍など、高貴な人々だけでした。
菓子が甘くなっていくのは、16世紀中頃にポルトガル、イスパニアの宣教師が伝えたボーロやコンペイト、カステイラ、アルヘイ糖等の南蛮菓子が登場してからです。この頃から、菓子は砂糖を材料として、次第にその味が甘く変わっていきました。安土桃山時代には、千利休により茶の湯が盛んになり、菓子の発展に大きな影響を及ぼしました。そして、町人文化が興隆を極める江戸時代に、菓子は時代の豊かさを象徴するように飛躍的な発展を遂げ、「京菓子」の名もこの頃に生まれました。




禁裏御用達の「京御菓子司」に
亀屋清永の創業は、元和3年(1617年)と伝えられ、寺町三条北入に住居し、当時の屋号は「亀屋冶兵衛」でしたが、のちに「亀屋清永」に改称しました。
江戸幕府は安政4年(1857年)、有職故実(昔の朝廷や武家の法令、行事、習慣などを研究する学問)にのっとり、和歌や俳諧などに取材してつくる京菓子を守るため、上菓子司を248軒に制限し、また、「禁裏御用達」の上菓子司をわずか28軒のみに許しました。これによって、菓子の本場は京都であるとの聞こえが高まりました。
なお、その28軒は「京御菓子司」と呼ばれ、亀屋清永もその一軒でした。
禁裏御所御膳所をはじめ、諸藩諸侯、寺社仏閣に出入りを差許された亀屋清永は、その後、代々の努力功績により「和泉大掾」の称号を賜りましたが、明治維新の変革に伴い「和泉大掾」を廃し、もともとの「亀屋清永」に改称しました。以降も「京御菓子司」の誇りと伝統を継承し、京菓子の発展に努力を重ねて今日に至っております。

